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美空ひばりさんは日本の歌謡界の大御所的な
素晴らしい歌手である事は皆さんご存知の通りですね
しかしお亡くなりになった現在は息子さんの努力により
現在も、引き継がれて私達を楽しませてくれています。
今回は、美空ひばりの詳しい生立ちから
息子さんの生立ちや現在の活動などについて
詳しく調べてみましたので参考にしてください。

美空ひばりの生立ち

神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を
営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。
増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、
喜美枝は東京山谷の出身である。

妹は佐藤勢津子、
・弟はかとう哲也
・香山武彦。

両親がレコード好きなので幼いころから、
歌の好きな両親の影響を受け
歌謡曲や流行歌を歌う事の楽しさを知った。

1943年6月、
第二次世界大戦に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、
ひばりは父のために『九段の母』を歌ったのである。

この壮行会に集まった者達が。ひばりの歌に感銘した様です。

この状況に母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける
可能性を見出して、
地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を
始めるようになったのです。

・デビューの経緯

945年、母・喜美枝が私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。
この時のひばりは8歳でした。

母・喜美枝の提案で「美空和枝」の名前で初舞台を踏んでいます。

しかし、残念なことに
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、
『リンゴの唄』を熱唱するも不合格

不合格の理由について審査員は

「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」
「真っ赤なドレスもよくない」
このような理由で合格できないと告げた様です。

しかしながらひばりは歌を辞めずに
ここから努力が始まったのです。

横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。
翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、
ひばり母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて、
ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌ったのである。
『悲しき竹笛」の動画

この歌は現在も私たちの記憶に残っていますね!

この歌を聞いた古賀政男は
「きみはもう、のど自慢の段階じゃない。
もう立派にできあがっている」、
歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った様です。

・巡業公演の始まりと恩師川田晴久との出会い

1947年、横浜の杉田劇場にて公演を行い、
漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。
以来、この一行と地方巡業するようになる。

恩師・川田晴久との出会い

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、
神戸での興行に影響力を持っていた
興行師に挨拶に出向き、気に入られた様です。

同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女が
・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂の
ボードビリアンである川田義雄
(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢されました。

それからは、川田晴久に可愛がれ、ひばりも川田晴久を「アニキ」と
呼ぶようになりこの頃から二人の付き合いが始まった様です。

そんな訳でひばりは川田に大きな影響を受け、
節回しを川田節から学んだと伝えられています。

川田一座では
当時のスター歌手、笠置シズ子の物真似(歌真似)が
非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びています。

・「美空ひばり」の芸名の誕生の経緯

同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加した時に、
同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結びました。

この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に
母親が芸名をつけてくれるように頼み、
美空ひばりと命名してもらったのです。

これを機会に横浜国際劇場の支配人だった福島通人が
ひばりの才能を認め、その後
マネージャーとなって舞台の仕事を取り、
次々と“ひばり映画”を企画することに成功したのです。

全国的人気を獲得の始まり

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で
笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、
同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)で
ブギウギを歌う少女として映画初出演。

8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、
主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として
B面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たしています。

続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、
同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。

この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は
小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。

1950年、川田晴久とともに
第100歩兵大隊二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。
帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。

映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。

・ひばりは最初に恋した人は

1951年、松竹『あの丘越えて』で
人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、
実生活でも鶴田を慕い、
ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの
小野満と婚約しましたがこの婚約は破棄されています。

1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚。

・新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立後の活動

同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。

代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、

斎藤寅次郎が就任。

同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に
杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が
当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。

・お嬢の誕生の経緯と中村錦之助との出会い

1953年、『お嬢さん社長』に主演した時に
喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、
その後、周りもそう呼ぶようになった。
初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして
映画「ひよどり草紙」で共演。

錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。
この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、
大スターとなる、というジンクスが生まれた。
錦之介とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり
周囲が猛反対したが、それでも別れないため困り果て、
岡田茂(のち東映社長)に頼み、岡田が、ふたりを諭して
別れさせた経緯がありました。

・三人娘の時代の経緯

1954年、『ひばりのマドロスさん』で
第5回NHK紅白歌合戦に初出場。
1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに
東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、
「三人娘」として人気を博した。 

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの
小野満と婚約しましたがこの婚約は破棄されています。

初の那覇公演を沖縄東宝で行い、
1週間で5万人を動員。
離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、
塩酸を顔にかけられる事件の遭遇

紅白の裏番組として放送されていた
ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の
『オールスター大行進』に出演していたため
出場していなかった。

紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、
出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子ら
ベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、
当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。

・ひばりプロダクションを設立

1958年4月1日、神戸芸能社の専属となる。
美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、
同年6月にはひばりプロダクションを設立。

この頃から本格的な活動が始まった様です。

同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。
『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、
『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。
1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは
二作目以降、岡田茂に頼まれ、任侠映画で
ブレイクする前の高倉健を相手役として迎えた。

東映と専属契約を結んだ1958年から1963年の間、
多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、
東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に
映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。

岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、
会社にとって最も重要な役割を果たした」と述べている。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、
「歌謡界の女王」の異名をとるようになったのである。

・小林旭との短い結婚・離婚後

1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚。
出会いは雑誌が企画した対談の場だった。

この結婚についてはひばりが一方的に入れあげたのだが
小林旭は結婚をまだ考えていない状態だったが
ひばりはある人に頼み、小林旭は仲介人に説得させられ多様です。

結局、1962年(昭和37年)に結婚したのですが、
ひばりの母・喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、
人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、
人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して
はばからなかったほどである。

小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、
女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。

小林は入籍を希望していたが、

ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、

入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯独身であった。

ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、

実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が
二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった様でした。

また、ひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、

仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい
願いも叶わなかった。

また結婚した翌1963年には、

ひばりの実父・増吉が肺結核により50歳で亡くなっている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚しています。

離婚直後に発表した『柔』は東京オリンピックともあいまって
翌1965年にかけて大ヒットしたのです。

美空ひばりの『柔』の動画

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180万枚というひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。
この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。
1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げました。
美空ひばりの『悲しい酒』の動画

1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲で
グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの
共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、
美空ひばりの『芸道一代』の動画

140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、
ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

ひばりの『真赤な太陽』の動画

・美空ひばりの終焉

相次ぐ肉親の死1980年代

1981年には実母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去。
ひばりをこよなく愛して、そして指導をしてくれた母を
亡くした時の事を考えるとさぞかし
辛かったのではないでしょうか?

1982年には「三人娘」以来の良きライバルで有り、
大の親友だった江利チエミが45歳で急死した。
親友でおあった江利チエミが亡くなったのも
寂しさが普通ではなかったような気がします。

1984年は「銭形平次」を18年間主役を演じ、
同番組の最終回にひばりが特別出演するなど親交のあった
大川橋蔵も55歳で死去した。
大川橋蔵との思い出は沢山ありました。
特に時代劇の子役の演技は可愛らしく、又粋な恰好が
良く似合っていたのでさぞかし可愛がられていたらしく
思い出が沢山有ったので寂しさがこみ上げてくる気持ちの
寂しさが目に浮かびます。

さらには、ひばりの2人の実弟だった、
かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、
共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続く。
ひばり一家の絆の強さは並大抵ではなかったはずですので
大変な悲しみを、考えると、この辛さは並大抵では
なかったのではないでしょうか?

ひばりは「かとうの実子」である加藤和也
1977年に養子として迎えていたのだが、
ここに記載した方々が皆さん若くして亡くなられてしまい
悲しみ・寂しさを癒やすために、自分がどうして良いか
解らない状態に追い込まれてしまったのでしょう。

嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。

晩年・病魔との闘い

1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペで
プレー中に腰をひねってしまい、
その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えていたが、
徐々に腰の痛みが悪化していったのです。

だが2年後の1987年(昭和62年)、
全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰の激痛は
耐えられない状態に陥ってしまったようです。

同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、
同市中央区の福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。
重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、
約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった。
(入院当時実際の病名は「肝硬変」であった。

入院中の1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、
7月17日には石原裕次郎(享年52)と、
ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが
相次いで亡くなる中、
ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たした。
「『もう一度歌いたい』という信念が、
最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。

退院後の約2か月間は自宅療養に努め、
同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングを行い
芸能活動の復活を果たす。

自宅療養中にあの難しい『みだれ髪』のレコーディングは
普通の歌手では歌えないような曲なのだが
作曲家の船村徹先生はびっくりした」と後日語っておられました。

しかし、病気は決して完治した訳ではなかった。
肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、
大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされたにも関わらず、

ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際には、
歩く姿は痛々しかったと語っていました。
それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。

伝説のステージ「東京ドーム」公演に向けて

1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養、
2月中には帰国。

同年4月に開催予定の東京ドーム公演が決まっていたので
帰国後、同年4月には、下見や衣装、当日の演出など準備段階を開始。

しかしこの段階では
足腰の痛みは殆ど回復していなかったのだが、
体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。

この時のひばりの公演に対する決意は並大抵では
なかった様です。

1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなる
「不死鳥コンサート」を実施

「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、
舞台衣装は森英恵がデザインしたものだが
衣装は決して軽くなさそうに感じました。

この頃のひばりは既に、
体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せて、
脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱したのである。

公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、
簡易ベッドと共に医師も控えていた。
また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。

公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、
まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。
楽屋でひばりはベッドに横たわっており、
浅丘が「大丈夫?」と問いかけると、
ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と答えたという。

ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと
歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。
とても歩ける状態では無いにも拘らず、
沢山のひばりファンに手を振り続けながら
全快をアピール。

そのゴール地点には息子・和也が控え、
ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、
そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。
当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、
ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、
伝説のステージとなった。

東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、
段差を1人で上ることさえ困難になり、
リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。
ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、
翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、
全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。

1988年6月7日には極秘で一時入院したが、
すぐ仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」
(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、
8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。
ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では
屋外ステージで歌った。映像は残され、
現在の特番でも放映されている。
参照 wiki

52歳、無念の死

再入院から2日後の1989年3月23日、
この日には現在までの全ての活動を中止する旨の
報道が息子の から発表されました。

ひばりの都の時の状態は
この間質性肺炎となった要因は「原因不明」とされ、
又この病気の治療法は主にステロイドホルモンが有効とされるが、
既にひばりは肝硬変の症状もあって、
副作用の懸念からステロイド剤も殆ど使えなかったという。

入院中の同年5月27日にひばりは、
再入院時の写真などと共に

「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」との
メッセージを発表。

このメッセージをご覧になられてファンの皆さんはどの様に
感じますか?
心が寂しくなりますね!

それから2日後の5月29日、ひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。

しかし、同年6月13日に呼吸困難の重体に陥り、
人工呼吸器がつけられた状態だそうです。

なおひばりの生涯最後の言葉は、
順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」
だったという。

そして1989年6月24日の午後0時28分、
再度「奇跡の復活」は果たせぬまま、

特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により
逝去した。 52歳没。

戒名は慈唱院美空日和清大姉。

墓所は横浜市港南区の横浜市営日野公園墓地にある。
案内地図

美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、
オリジナル楽曲は517曲であった。

ひばりの息子 加藤和也 の経歴

加藤和也の画像
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美空ひばりの長男(養子)

加藤 和也(かとう かずや、
生年月日 1971年8月10日
出身地 東京都
学歴 高校を停学後に中退。
職業 日本の実業家
・芸能プロモーター。
株式会社ひばりプロダクション
・藤和エンタープライズ代表取締役社長。

加藤和也の来歴

実父は美空ひばりの実弟のかとう哲也(旧芸名は小野透)
血縁上はひばりの甥にあたる。
7歳の時に伯母・ひばりと養子縁組をした
2000年に浜田光夫の長女と結婚

肉親が次々と亡くなったひばりの唯一の跡継ぎであり、
ひばりプロダクションの社長として、
今も熱心なひばりファンに対して様々な企画・運営を行っている。

16歳でひばりプロダクションの副社長に就任、
翌年社長に昇格する。
その後、ひばりが死去し青山葬儀所で行われた葬儀で喪主を務めた。
ブルースシンガーの大木トオルの付き人を6年務め、
ベン・E・キングなどのアルバムに参加

現在は、ひばりに関する事業や権利の管理などを手がけている。
記念館や、「ひばりかふぇ」などの飲食業も展開している。

まとめ

美空ひばりのファンの皆さん!
最後までお付き合いありがとうございました。
今回は、美空ひばりの生涯について詳しく調べて
掲載しましたが、まだまだたくさんのエピソード等に
ついては、残念ながら掲載できませんでしたが
管理人も美空ひばりの熱烈なファンの一人です。
美空ひばりは現在この世にはおりませんが
息子さんの事業展開などによってメディアでの放送等も
見ることが出来るので感謝しております。
これからも美空ひばりを応援しましょう!!

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