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400相川七瀬のプロフィール
苦労を重ねて早20周年を迎えた相川七瀬が
恩師の織田哲郎の楽曲をカバーしたアルバム


『TREASURE BOX』
を発売しました。

デビュー曲

「夢見る少女じゃいられない」

大ヒットし、最近、急に栄光を掴んだのは
良かったですね♪
現在はバラエティ番組などでも活躍しています。

相川七瀬のヒット作を調べてみました
「夢見る少女じゃいられない」が大ヒットしました。

では を聞いてみてください♪

如何でしたか?素晴らしいですね♪

相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」の歌詞


歌詞は

相川七瀬のプロフィール

相川 七瀬
出生名 佐伯 美咲
出生 1975年2月16日(40歳)
出身地 ・大阪府大阪市東淀川区豊新
学歴 大阪府立北淀高等学校中退
ジャンル ロック、J-POP
職業 歌手、作詞家
担当楽器 歌
活動期間 1990年 – 現在
レーベル motorod
事務所 フォーミュラエンタテインメント
公式サイト Nanase Aikawa Official Website
2001年、自身の誕生日でもある2月16日に一般男性と入籍
2001年9月、第一子となる男児を出産
2007年、9月9日、自宅出産で無事に第2子となる男児を出産
2012年9月18日、難産ながらも無事、第3子となる女児を出産

相川七瀬の今日までの経緯をインタビューした内容です。
相川さんはデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」で、
いきなり大ブレイクを果たしました。
その後、20年間の中で“相川七瀬”を辞めたいと
思ったことはありましたか?

【相川】 ありました。私の場合、
このままだと自分はおかしくなるなって
時期がちょうど結婚のタイミングでした。
それがなかったら、多分、心が折れていたと思います。
でもそこで強制終了のように息子が生まれて、
本当に自分が欲しかったもの、
例えば落ち着いた生活や自分と向き合う時間、
そういうものをあの瞬間に仕事と引き換えに手に入れました。
それはすごく難しいことで、
あの時期は仕事を手放さければ得られなかった。
だから重い決断だったけど、
人間としての自分を考えると、
方向転換ができて良かったなと思います。
ただ、そこからは浮いたぶんだけ沈んだ時間っていうのが
10年ぐらい続きました。

――10年も?
【相川】 長かったけど、今思えばすごく貴重な時間でした。
自我と戦ってきた10年だったし、
足りないものを補って来た10年でした。
自分は何のために歌を歌い続けていくんだ?
みたいな、歌手としての在り方が
わからなくる時期もありました。
次男が生まれたあと体調を壊したり、
声が出なくなったりして、思うように自分を
コントロールできないことが心身ともに
辛くなっていたんです。
でもその時期に今はライフワークになっている
モノを書くことのベースとなった、
心理学を学べたのは大きかった。
どんなに沈んでも心のバランスを
崩さずにいられたのは、
セラピストとして勉強して活動したり、
自分の感情に巻き込まれないトレーニングを
ひたすらやっていたからだと思います。

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――そうやって心身のバランスを取り戻していくなかで、
改めて音楽とも向き合っていった?

【相川】 そうですね。
そこは次男の存在も大きくて。
私が音楽と離れていたかった時期にも、
“相川七瀬”のライブDVDを次男が家で
観ていたりするんですよ。
私は観たくないし、聴きたくないのにと思っているのに(笑)。
でもいやいやながら観ていると
だんだん「結構、いいステージだったな」って
思えるようになってきて(笑)。
自分が勝手に思い込んでいた過去は決して、
悪いものなんかじゃなかったって
素直に観られるようになった。
今思うと、それがリハビリだったんでしょうね。
彼のおかげで音楽をしている自分と
向き合いたいなって思えた気がします。
さらにその頃、東日本大震災があって、
それをきっかけに私の音楽への取り組み方が
まったく変わりました。

――すごいタイミングですね。

【相川】 そう。本当に震災のタイミングで
スイッチが切り替わった。
それまでは昔の曲を歌うのはキツいと
思いながらステージに立っていたことも
あったけど、
これが最後かもしれない、
明日はないかもしれないと考えたら、
昔の曲であれ何であれ喜んで聴いてくれる
拍手してくれる人がいるなら、歌いたいと。
そうしたら、こだわりとか執着がみたいなものが
ふっとなくなって。
何より私自身が歌っていて幸せだってことに
気づいたんです。
ここに辿り着くまでは随分長い道のりでしたけどね(笑)。

◆ラッキーだったのは織田哲郎が、
私の人生をプロデュースしてくれた

――波瀾万丈ですよねぇ。

【相川】 振りが大きければ、
その分の返りの幅も大きいですからね。
でも私が本当にラッキーだったのは
織田哲郎って人が私の人生を
プロデュースしてくれたからだと思います。
彼は歌手としての私に責任を持ってくれただけでなく、
私の人生も大人になるまで預かってくれた。
そのおかげで道を逸れることはなかったので、
本当にありがたいなって思っています。

――音楽以外にもいろいろ言われたりしたんですか?

【相川】 言われましたよ。
特に20代の頃はちょっとでも調子に乗っていると
よく叱られました。
私生活においても、踏み外しそうになる時にはいつも
「お前、本当いい加減にした方がいいよ」と
お父さんみたいに(笑)。
私が沈んでいるときも
「お前は雑草のように
野太く生きて行けるから心配するな大丈夫」って。

――そんな20年を振り返ると、長かったですか?

それともあっという間でした?
【相川】 長かったですね。
ずっと忙しく活動していたら、
あっという間だったかもしれないけど、
私は活動していた期間と
できない期間の両方があったから、
ひと口には語れない。

――20年間、歌い続けると思っていました?

【相川】 全然。だって20歳が思う40歳って大人すぎて
イメージが湧かなかった。
でも自分がいざこの年になると、
中身はこの程度なのかって思うけど(笑)。
色んなことがあった20年間だったけど、
ミュージシャンとして私は絶対こうなりたい! と
いうこだわりが良い意味でなかった事が
私にとってはプラスだったのかなと思います。

――でも、結果的に相川さんは20年間
“ロック”を貫いてきました。
それができたのは何でだと思いますか?

【相川】 結局、色んなサウンドを作っていても、
自分が一番燃えるのはロックなんですよね。
私は歌謡曲もPOPSも大好きだし、
いろいろなジャンルを試したりもしたけど。
ライブで歌って燃えるのってやっぱりロックだから、
そこが自分のフィールドなんだなと本当に思います。

――では、いま“夢見ている”ことはありますか?

【相川】 やっぱり20周年まできたら、
次は30周年を目指したい。
そのなかでどう熟した歌手になっていくのか、
これからの10年はまた修行です。
まだまだがんばらないとダメだなって思っています。

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