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NHK連続テレビ小説「あさが来た」の番組の
視聴率が高騰しています。
原因は、スタッフの好演技や脚本の素晴らしさに
で、あるような気がします。
今回は、主人公のモデルになった広岡浅子さんの
経歴を調べてみました。

広岡浅子の経歴

山城国京都(現・京都府京都市)
・油小路通出水の小石川三井家六代当主
・三井高益の四女として生まれる
  幼名は照
9歳で父親が没し、35歳の高喜が家長となる。

17歳(数え年、以下同様)で鴻池善右衛門と
並ぶ大坂の豪商であった
第8代加島屋久右衛門正饒(まさあつ)の次男
・広岡信五郎と結婚。

1884年(明治17年)ごろから炭鉱事業に参画し、
筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を
買収して、開発に着手。

1888年(明治21年)に加島銀行を設立。

1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、
加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となる。

これらの活躍により、広岡浅子は鈴木米(鈴木商店)、
峰島喜代子(尾張屋銀行)らとともに、
明治の代表的な女性実業家としてその名を馳せる。

広岡浅子の日本女子大学校の設立に尽力

1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった
成瀬仁蔵の訪問を受け、
成瀬の著書である『女子教育論』を手渡される。
幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は、
『女子教育論』で成瀬の説く女子高等教育機関設立の
考えに大いに共鳴し、
金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして
政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、
強力な援助者となる。

広岡浅子の晩年

また広岡家はもとより、実家の三井家一門にも働きかけ、
三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、
1901年(明治34年)の
日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。

社会貢献事業に専念する

1904年(明治37年)に夫の信五郎が死去したのを機に、
事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、
以後は社会貢献事業に専念する。
同年日露戦争が始まり、愛国婦人会に参加し、
中心的人物として活動する。

広岡浅子の腫瘍手術


乳がんのため、60歳のときに受けた胸部の腫瘍手術から
無事生還できたことをきっかけに、
回復後の1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。
婦人運動や廃娼運動にも参加し、
当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せ、
同性の啓発に努める。

広岡浅子の西洋婦人は宗教に専念

「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴で
あり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、
宮川による『心霊の覚醒』や
自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版して
日本のキリスト教化に励んだ。

日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。

日本女子大学設立後


浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、
1914年(大正3年)から死の前年(1918年)までの毎夏、
避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で
若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。
参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。

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広岡浅子の最後の遺言


1919年(大正8年)、腎臓炎のため
東京・麻布材木町(現・六本木6丁目)の別邸にて死去。
「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、
遺言を残さなかったと言われる。

生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と
各地に別邸・別荘を積極的に建築していた。
葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、
浅子の功績を称え、日本女子大学校では
同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。

広岡浅子の家族構成

広岡浅子の家計図
■父 – 三井高益(1799年 – 1858年) – 小石川三井家6代当主。
京都市上京区大黒屋町に広大な屋敷を構えていた。
その一部は現在、ホテル「ルビノ京都堀川」になっている。

正妻との間に三女一男があったがいずれも早世、
高喜を別の三井家(南家)から養子に取り、
48歳のとき家督を譲った。

■浅子は高益50歳のときの娘で、別腹の子。
浅子の姉・春も別腹で、二人とも母親の名は不明。59歳で没。

■義兄 – 三井高喜(1823年 – 1894年) – 小石川三井家7代当主。
号は三郎助。

三井の南家より高益の養子となり、家督を継ぐ。

28歳のときに、2歳の浅子を義妹として入籍。
春は養女として入籍。

■長男の弁蔵(1850-1912)は、
小石川家第8代当主三井高景となり、
妻の寿天子(すてこ)とともに
浅子の学校設立を支援した。

■義姉 – 春(1847年 – 1872年) – 浅子より2歳上の異母姉。
高喜の養女として三井家に入家。
浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁ぐ。
25歳で没。

■夫 – 広岡信五郎(1841年 – 1904年)
第8代広岡久右衛門正饒の次男。
早くに分家の嫡男として養子に出る。
尼崎紡績(後のユニチカ)初代社長。
大阪運河取締役。
観世流の謡曲が趣味。

妻によく従う夫として知られていた。
浅子との間に一女、女中ムメ(小藤とも)との間に
三女一男。
■長男の松三郎(1888年 – 1971年)は
大同生命保険4代目社長に就任。

■長女 – 広岡亀子(1876年 – 1973年) – 浅子の一人娘。
明治9年(1876)10月生まれ。

■女婿 – 広岡恵三(1876年 – 1952年) – 子爵・一柳末徳の次男。
東京帝大卒業後三井銀行を経て、
加島屋経営に加わる。

加島銀行頭取、大同生命2代目社長。
大阪電気軌道初代社長にも就任したが、
浅子がリスクを察知して辞任させた。
父親と不仲だった実妹の一柳満喜子も
留学前の若いころ広岡家で暮らしていた。
恵三の神戸市東灘区の私邸は、
現在甲南女子大学になっている。

■義弟 – 第9代広岡久右衛門正秋(1844年 – 1909年)- 夫の弟。
加島銀行初代頭取、大同生命初代社長。

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